表紙に戻る
過去の記録から

温 故 知 新

NO.14  戸倉小学校(現在の校舎)
昭和58年2月16日、かねてから懸案であった校舎建設の話を町からの受け、第1回校舎改築促進委員会を結成する。宮本和一氏が代表に就任。PTA臨時総会開催。よりよい校舎の建設促進について決議。2月26日、第2回委員会。規約を制定。常任委員15名を選出。請願書提出(28日)を決定。以後、昭和60年、11月に至るまで16回開催する。
「1、新しい教育を進めるのにふさわしい校舎の建築を進めるようご配慮いただきたい。 2、現校舎の良さを十分生かした校舎建築になるよう工夫していただきたい。 3、特別教室増設を含めていただきたい。・・・」(町に提出された請願書より抜粋)11月9日、PTA全員に校舎建設に関する意見を聞く会を開催。12月2日、校舎改築関係者説明会開催(教委)。59年2月1日、第10回委員会。光厳寺より土地借用を決定。戸倉財産区からの5千万円の支出決定。8月、基礎工事始まる。
昭和60年8月2日、宮本建設委員長退任、黒山富太郎氏就任。3月31日、新校舎完成に伴い、物品の移動を行なう。プール建設費として財産区より2千万円支出。4月6日、新校舎で始業式・入学式を行なう。7月、旧校舎解体開始。プール建設開始。校庭整備、遊具砂場等設置。12月1日、新校舎落成記念祝賀会が挙行される。昭和61年2月25日、校舎建設促進委員会を解散。6月27日、新プールでプール開き。保護者・地域・関係機関の努力で、すばらしい校舎が完成した。尚、市内の学校で耐震化工事が始まったとき、唯一工事を必要としない校舎であった。
  参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」、他
NO.13 特色ある教育を支えた研究
研究紀要 学習指導要領 主な研究テーマ
■昭和33年改定
(実施:36年度〜)
○教育課程の基準としての性格の明確化
・道徳の時間新設
・基礎学力の充実
・科学技術教育の向上等
・系統的な学習を重視

■昭和43年改定
(実施:46年度〜)
○教育内容の一層の向上(現代化)
・集合の導入(算数)

■昭和52年改定
(実施:55年度〜)
○ゆとりある充実した学校生活の実現
・各教科の目標・内容を中核的事項にしぼる

■平成元年改定
(実施:4年度〜)
○社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成
・生活科の新設
・道徳教育の充実





平成10年改定
(実施:14年度〜)
○基礎・基本を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成
・教育内容の厳選
・総合的な学習の時間の新設
















■平成20年改定
(実施:24年度〜)
○「生きる力」の育成、基礎的・基本的な知識・技能の習得、思考力、判断力、表現力等のバランス
・授業時数の増加
・指導内容の充実

外国語活動の導入
S48・49「豊かな心を育てる教育活動」〜地域・学校の実態を生かす愛鳥活動と道徳指導〜(文部省へき地教育研究指定校)
S52「ひとりひとりが主体的にたどる理科の学習指導法の研究」〜豊かな自然環境と少人数学級の特性を生かして〜
S53「豊かな自然を生かしてひとりひとりが意欲的にたどる学習」(日本初等理科教育研究会全国大会・第3会場発表校)
S54〜55「豊かな自然を生かしてひとりひとりが意欲的にたどる学習指導法」*研究授業14回(54)、12回(55)。
S56〜59「豊かな自然を生かしてひとりひとりが意欲的にたどる学習指導法の研究」
S62〜63「地域の教材を生かし、ひとりひとりが意欲的にたどる学習指導法の研究」*紙芝居作成、実技研修(62)、実技研修「朗読、演劇、探鳥会」(63)
H1「愛鳥教育活動の充実と発展」〜年間指導計画の見直し〜
H2〜6「統一したテーマは設定されていない」*実技研修(各分科会でテーマを設定)
H7〜8「児童の表現力を高めるための指導の工夫」*全体会・分科会(実践事例をもとにした研究)
H9「自分から進んで活動する児童を育てる」〜課題の工夫を通して〜
H10「自分から進んで活動する児童を育てる」〜算数科の問題解決学習を通して〜*全学年が研究授業を行なう。*市教育研究推進校(10、11)
H11「自分から進んで活動する児童の育成」〜算数科の問題解決学習の実践〜(あきる野市教育委員会研究推進校)
H15「めあてをもって主体的に学習に取り組む児童を育てる」〜地域教材を生かした指導法の工夫と評価〜
H16「めあてをもって主体的に学習に取り組む児童を育てる」〜地域教材を生かして、伝え合う力を育てる指導法と評価〜
H17〜18「めあてをもって主体的に学習に取り組む児童を育てる」〜地域教材を活かして、自然や文化、環境を大切にしようとする心を育てる〜*低・高分科会、研究授業2回(17)、低・中・高分科会、研究授業3回(18)。
H19〜20「学びあいながら伸びる児童の育成」〜国語の指導を通して読む力をつける指導法の工夫〜*低・中・高分科会、研究授業3回(19)、低・中・高分科会、研究授業4回、講師による模擬授業1回(20)。
H21「「学びあいながら伸びる児童の育成」〜説明的文章の読解力をつける指導法の工夫〜*H21から全員が研究授業を行なう。
H22「主体的に学び合いながら伸びる児童の育成」〜算数科:数の計算領域の『数の概念』の系統的指導を通して〜
H23〜24「自ら学び、自ら考え、進んで課題を解決する児童の育成」〜算数科:表現する能力の育成を通して〜
本校には、昭和40年代後半から現在までの「研究紀要」・「研究の記録」が残っている。初めて紀要が作られたのは、昭和47年度である。それ以降、本校の特色ある教育活動は、今日まで連綿と続いている。本校の教育の特長は、@各教科・道徳等の指導計画が、「愛鳥活動」を基調として作成されてきたこと。 A少人数の特性を生かした個に応じた指導を追求してきたこと。 B保護者・地域と学校とが一体感をもって児童の健全な育成に当たってきたこと。等が挙げられる。今日、「生きる力」の育成が求められているが、本校では40年も前に「児童が主体的に学ぶ指導法の研究」に着手し、研究授業を中心とした実践的な研究と理論の構築がなされていた。このことはあまり知られていないが、特筆すべきことである。教育にも、「不易」と「流行」があるが、本校が一貫して大事にし、追求してきたものは、「自ら考え、自ら判断し、主体的に生きていく力を持った児童の育成」である。本校は、「愛鳥モデル校」「鳥の学校」として名高い。しかし、同時に、誇るべきは、子どもたちと創りあげてきた日々の実践であり、授業であろう。各年代の「研究紀要」には、その時々の努力と思いが詰まっている。 
参考資料:「研究紀要」「研究の記録」「学習指導要領」他
NO.12  児童数(在籍数) 
 明治34年の児童の在籍数は115名である。明治38年を境に毎年増加し、明治44年には215名となっている、その後変動しながらも増加を続け、大正13年には278名に達している。昭和9年まではやや減少しているが、200名を上回っている。昭和10年から児童数は急増し、昭和11年に285名のピークに達している。昭和17年に210名とやや減少したが、昭和26年まで250名を超えている。尚、昭和19年から21年までの記録は学齢児童数であるので空白とした。(S19/221名、S20/366名、S21/262名、S22/不詳)昭和20年前後の児童数の急増は集団疎開が行なわれたためと思われる。昭和23年から昭和29年の229名までやや減少したが、そこから増加に転じ、昭和33年に267名となり、最後のピークとなった。昭和49年の101名まで毎年減少する。その後、数年間増加するが、昭和55年の130名を境に、多少の増減を繰り返しながら緩やかに減少している。昭和59年を境に100名を切る。平成8年50名を切る。その後も僅かずつ減少が続き現在に至っている。平成24年4月1日現在、戸倉小学校の児童数は20名となっている。 
 参考資料:「沿革誌」、「戸倉小学校開校120周年記念誌」
NO.11   記録    戸倉のソフトボール  

秋山氏(昭和50年)
昭和49年、第1回五日市町小学生ソフトボール大会が開催される。
翌昭和50年度の第2回大会で、「戸倉ホノーズ」が優勝を飾る。
当時は、放課後に子供達が三々五々校庭に集まってきてソフトボールをして遊んだり、練習したりしていた。地域の秋山源吾氏が、子供達を熱心に指導されていた。教師も放課後、子どもたちにノックをしたりして、練習に加わったりしていた。そんな時代であった。
昭和51年、放課後のソフトボール練習中に起こった事故をきっかけに、校外スポーツ活動のあり方が課題となった。
昭和52年4月、当時の小林巌PTA会長と地域の有力者の方々が発起人となり、「戸倉地区スポーツ後援会」が発足する。初代会長に野崎喜一郎氏が就任した。会の目的は、戸倉地区内児童生徒の校外スポーツ活動の振興と余暇の善用による青少年の健全な育成であった。また、スポーツ安全協会損害保険にも加入し、不慮の事故への救済策が整えられた。事業内容は、@歩こう会参加 A夏休み水泳練習 B町内水泳大会参加 Cハヤつり大会 D町内ソフトボール大会 Eサッカー練習及び対外試合 F他校との親睦試合 G子ども会行事 Hマラソン大会 I 運動会参加協力の10項目。役員の任期は2年。
昭和54年8月、第1回サマースポーツレクリェーションを本栖湖で実施する。スポーツ後援会としてのサマースポーツレクリェーションは、昭和63年度までの10年間実施された。二代会長の山下仙蔵氏の言葉が残っている。「戸倉地区スポーツ後援会は、昭和52年に発足し、現在会員数278名に至っております。発足するにあたっては、子供達の放課後における保険の加入が目的であったと聞いております。しかし、設立委員会の中では、「事業もすべきだ」との意見も強く、審議の結果採用されました。(中略)特に本栖湖における二泊三日の合宿生活は、親ばなれ、自律心、しつけなどを考えていただく勉強会、ということではないでしょうか。合宿の前には、廃品回収を実施しております。これは、社会教育の場としての仕組を肌で感じていただき、お金の大切さ、協力、物の大切さ等を自然に子供達に学んでもらうわけです。(中略)戸倉の子供達の健全なる育成については、学校、PTA(父母)、地域(スポーツ後援会)が一体となってこそ、達成できるものと確信しております。(後略)」(昭和59年の後援会だより)
昭和56年4月、剣道クラブ発足する。部員39名。
昭和59年1月、どんど焼きを、「山渓」の下で実施する。
昭和62年度から役員の任期が1年となる。その背景として、児童数・保護者世帯数の減少と役員の人選が困難を極める等の事情があった。
昭和62年6月、三代会長の乙津義夫氏の時、PTAとスポーツ後援会の合同役員会が開かれ、スポーツ後援会の解散とPTAとの合併問題等が話し合われる。昭和62年度の児童数は83名。保護者世帯数は63戸。
廃品回収にかえて、第1回城山清掃(秋川河川清掃を含む)を実施する。
昭和62年12月、スポーツ後援会とPTAは、それぞれに臨時総会を開催し、議論を重ね、スポーツ後援会の活動をPTAに一本化することが決まる。スポーツ後援会の名称は、「体育厚生部」と変更し、昭和63年度からはPTAの一専門部として継続することとなった。後援会会員に宛てた臨時総会の案内から、そこに至るまでの経緯が伺われる。「昭和62年度総会において、田中英雄選考委員長より特に発言があり、役員の選考について提案がなされた。要旨は戸倉小学校の児童数・保護者世帯数が減少したため、役員の選考が困難を極め、これを解決するためにはスポーツ後援会を改革し、学校の規模にあったものに変える以外にない。そのための準備活動を今年度の課題として取り組んで欲しいというものである。これを受けて、学校・PTA・後援会で四役会を組織し改革のための話し合いを慎重に続けて参り、素案として一応の体裁をととのえるに至りました。(中略)こうした現状認識に立ちまして、今まで継続してきたスポーツ後援会の体質や運営を変えることなく、時節の動きに合わせた機構改革を行い、存続させていく方向を探っていかなくてはなりません。」
昭和63年度のPTA広報「若草」最終号には、「会員数の減少の中で9割近くの世帯が、何らかの役員を担当しなければならない現状は、組織の事業内容等を検討する時期に来ているものと思います。今後も会員の皆様の英知を結集し、よりよいPTAを目指そうではありませんか。」と記されている。
平成に入ると、PTAと学校との共催という形で本栖湖サマースクールが実施された。平成4年11月、学校と保護者代表の話し合いがもたれ、今までの形での合宿は難しくなってきたのではないか。学校行事としての時間が半分になる。宿泊行事を残してあげたい等、様々な意見が出された。その結果、学校行事として宿泊体験活動を設定することとなり、本栖湖サマースポーツ合宿は、平成4年度をもってその歴史に幕を閉じることとなった。
平成7年12月、PTA臨時総会で組織の見直しがなされる。校外指導部・事業部・学年部を学年部に統合し、体育厚生部を厚生部と名称変更した。こうして、各部の委員が最小限に抑えられた。その後、ソフトボールの指導は、厚生部・保護者とが一体となって進められ、今日に至っている。
現在、戸倉ジャガーズは3年生から6年生までの男女混成チームであるが、「あきる野市少年・少女ソフトボール大会」では、常に優勝や優勝に絡む好成績をおさめている。
平成23年度、戸倉ジャガーズは、PTA組織から独立した。戸倉ジャガーズとして試合や練習を続ける一方、広域チームの「オールあきる野」に入り活動の場を広げつつある。保護者・教職員の応援は、今も変わりなく続いている。

サマースポーツレクリェーション

プール指導
 
城山清掃

ホワイトコンドルズ/関東大会

現在の戸倉ジャガーズ
 参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」、他
NO.10                  戸 倉 荘

30年以上戸倉荘を見守ってこられた管理人の
   入山氏と戸倉荘 (平成21年7月)
   .

明治39年から90年以上の時を刻んできた
旧校舎と玄関

明治27年につくられた玄関・左右の柱は
疋田先生と当時を偲び記念柱と呼ばれた
  
昭和30年、新校舎建築に伴い、旧校舎の一部を林間学校施設「戸倉荘」として、西戸倉の秋川河畔に建設された。運営は戸倉荘運営委員会が行い、委員長は小中いずれかのPTA会長が務めた。PTA活動資金の一部がこの事業収益で賄われ、戸倉荘の運営は、PTAの事業の中でも重要な位置を占めた。昭和38年、戸倉中・小宮中・五日市中が統合しため、戸倉荘は小学校のPTA(委員会)が運営することになった。戸倉荘は、近隣の学校や諸団体に数多く利用された。当時、児童・生徒だった人などを中心に、今も懐かしむ声は多い。それを支えたのは、多くの歴代PTA会員の熱心な奉仕作業であったことは言うまでもない。
平成に入ると、老朽化や児童数・家庭数の減少などで、これまで通りの運営が難しくなってきた。戸倉荘が開設されて55年目の平成21年末日、歴史的建造物である戸倉荘は、その使命を終えて解体された。跡地は更地となっている。

伊奈の大工「彫清」の彫った
  「鶴の透かし彫り」
    . 
 参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」、「戸倉小学校開校130周年記念誌」他
NO.9 戸倉小学校(前校舎)
昭和30年1月、新校舎建設のため、整地作業を開始。米軍の全面協力を得て7日半で終了した。
昭和30年4月、町村合併により「五日市町立戸倉小学校」と改称した。 
昭和30年11月28日、村会で新校舎建設を決定以来、4年の歳月をかけて理想の校舎が完成した。当時の建設委員長の言葉を要約すると、「教育の殿堂はその環境、規模或は施設等出来得る限り理想的なものにすべきである。新校舎は、鉄筋コンクリート3階建を中心に、木造平屋建及び二階建を両翼に配置し、細部にまで教育的配慮を施したものであった。特に採光、色彩についてはその道の大家を招聘して施行した。保健衛生の観点から給食室の設備には万全を期し、学童の体格に応じて机と椅子を新調した。今後は、新町理事者と教育委員会によって新校舎にふさわしい管理運営が為されることを信ずる。同時に現場教職員諸氏によって理想的な教育が為されることを希望せざるを得ない。財源の大部分は、村有林、財産区有林によって賄うもので、山林経営に苦心された村の先輩諸氏の努力の賜物と深く感謝しなければならない。終わりに、この新校舎で学ぶ子供等の将来に幸多かれと祈るものである。」とあり、新校舎建設にかけた先人達の先見性と思いが切々と伝わってくる。
昭和30年から31年にかけての新聞や雑誌には、数多く戸倉小学校が紹介されている。産経経済新聞「都下随一のモダン建築」、科学朝日「小学校の色彩調節」、婦人の友「山村にできた美しい小学校」、東京新聞「海外にも紹介されるモダンな五日市町立戸倉小学校」、新五日市社「色彩調節の戸倉小学校」、読売新聞「日本の学校を海外に紹介・30種の色分けで視覚教育」、日本児童文化「日本最初の色彩調節のモダンスクール」、毎日グラフ等々。昭和36年までに、参観者は全国から約400人にも達した。
【色彩調節】
感受性の強い敏感な児童に対して、その嗜好にかなった色彩で落ち着いた雰囲気を与えることによって、気持よく学習や作業ができる。学習や作業の能率が増進する。清潔感が強くなる。図書室、理科室、音楽室の特別教室は各々その機能に応じるような異なった色彩調節が施され、玄関、校長応接室、職員室、給食室等、皆色彩が異なっていた。廊下より教室に入った時の落ち着いた感じ、教室より廊下に出た時のホッとした温かい感じは色彩が全く異なるためであった。






 参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」他
       NO.8                上の学校

 
新築移転した当時の戸倉小学校
明治39年11月、日露戦役平和克服記念事業として現在の校舎のある敷地に、校舎を新築移転した。木造杉皮葺、一部二階建、普通教室5・職員室・応接室・宿直室・生徒控室・使丁室・裁縫室外、講堂・雨天体操場・図書室を完備し、当時としては画期的なものであった。落成式には、東京府知事も臨席された。小学校の落成式に知事が臨席された例はなく、この日を記念して開校記念日とした。生徒数は200名であった。明治40年3月、義務教育が6年となり、高等科は2年に短縮された。当時は養蚕が主な現金収入源だったため、農繁休校といって、半月前後の臨時休校があった。明治41年、年々盛んになってきた運動会に高齢者を招待し敬老会を行なった。運動会は教育会が主催し、「戸倉村大運動会」として小学校・青年団・淑女土曜会・在郷軍人分会・村民一同等で行なわれた。他校生徒による優勝旗争奪リレー等もあり、他町村からの見物人も多かった。
大正4年、大正天皇御即位記念事業として、樟(くすのき)が玄関の左右に植えられた。また青年団により学校後園に梅苗250本が植えられ、記念梅園ができた。大正5年、電灯がついた。大正8年、生徒数が増えすぎたため、他町村の児童の入学を断る。生徒数(尋常科)239名、(高等科)39名。戸倉村が模範村として全国に知られた明治39年から大正9年までの14年間で、全国からの視察来村者が2,395名にものぼった。
昭和2年、校章が制定された。昭和8年、国定教科書の記述が、「サイタサイタサクラガサイタ」、「ススメススメヘイタイススメ」となった。昭和16年、「戸倉国民学校」と改称、義務教育が8年制となった。翌年1月には、学徒動員が開始された。昭和17年、高等科を2学級編成とし、校舎を改築して1教室を設ける。昭和19年、校舎の通風採光をよくするために、東向き校舎を南向きに移築し、3教室続きの2棟とした。8月、品川区城南国民学校の3年から6年までの学童133名が、光厳寺・晋光寺・西戸倉倶楽部に集団疎開して、戸倉国民学校で一緒に勉強した。薪背負、空地開墾、勤労奉仕等が多かった。当時の学校は、軍人勅諭を暗記し、学業よりも体力づくりが強調された。また、殴ることが正当化され、さながら「軍隊分校」の感があった。
昭和20年8月、終戦。同年9月、戦時中に使用した教科書が黒く塗りつぶされた。昭和22年4月、6・3・3制が採用される。校名を「戸倉小学校」と改め、同時に小学校内に新制中学を併設した。昭和23年9月、39年11ヶ月の長きに渡って、戸倉のために尽力された堀内利愛校長がご退職された。同年12月、戸倉小学校PTAが発足した。24年3月、戸倉中学校校舎が落成した。26年10月、村会で新校舎建設を決定した。27年10月、戸倉村教育委員会が発足した。
    参考資料:「戸倉小学校百年のあゆみ」、写真:学校所蔵
     NO.7
                  下の学校
明治11年6月、現在のアートスタジオ前に校舎を新築した。この時に校名を「戸倉小学校」と改称した。建設資金は村有林を売却したもので、残りを村民に貸付け、その利子で教員の給料や校費にあてた。この試みは当時としては画期的なことであった。これにより、神奈川県庁より校旗を授与されている。(当時、この辺りは神奈川県であった。)生徒数は30名で、訓導(先生)は一人であった。校舎は、木造杉皮葺(もくぞうすぎかわぶき)の平屋建(ひらやだて)一部屋で、各学年が同居していた。机と椅子は、二人掛けの椅子が始めて使用され、立机と共に座学であった寺子屋式学習から腰掛式学習に変わった。教室の隅に先生の住居があった。明治14年、生徒数が増加したため、校舎を二階建に増築した。しかし、財政難のために、完成間近になって工事は中止された。校舎の完成は、増築と修理が行なわれた明治27年まで待たねばならなかった。
明治17年5月、疋田浩四郎先生が校長兼訓導として着任する。同6月、清水良八先生が訓導となる。生徒数50有余名。この後10年間は、経済恐慌もあって村政が窮乏し、学校も冬の時代を経験することとなる。この頃の先生は、一人でも多く就学するように勧誘して回ったというエピソードが残っている。年齢や時季に関係なく入学させたらしい。明治29年、生徒数約90名。補習生20名。(この頃小学校4年卒業者に補習教育を行なった。)
明治33年、校舎を増築し、高等科を併設した。校名を戸倉尋常高等小学校と称した。生徒は、桧原村、小宮村、三ツ里村(高尾、留原、小和田)、五日市町からも生徒が通学した。生徒数、158名。明治38年10月、村教育会の事業として小学校内に「青年夜学会」を開設。週3回小学校職員が授業をした。夜学会生徒数57名。明治39年1月、小学校内に「淑女土曜会」が発足する。毎週土曜日に学校職員により未婚の女子を対象に学業を指導した。
*日清戦争、明治27年−28年。
*明治34年の教育予算は、村の総予算の45%。
 当時、村としていかに教育に力を入れていたかが
 わかる。
   参考資料:「戸倉小学校百年のあゆみ」
        NO.6                新進学校 
明治7年、策励学校から分離し、光厳寺に新進学校を設立した。場所は、大桜の上の平地で、現在は畑となっている辺りに隠居所風の建物があり、そこで勉強していた。
学校(お寺)への道は、大門、裏大門、久保河原から登る道と、三本の道があった。大門は、忠霊塔の南側の窪地から今の学校の所まで延びていた。途中、両側には墓地があった。この道は、明治39年、学校建設の際にとりつぶされた。裏大門は、現在使っている道である。
明治10年、光厳寺消失のため、村用掛(後の村長に当たる)の家に移転した。記録は残っていないが、寺子屋風の勉強をしていたということである。
  参考資料:「戸倉小学校百年のあゆみ」
 NO.5                 愛鳥教育 
















愛鳥活動は、昭和41年4月、本校に着任された地元の小峰敏雄先生が、豊かな自然への関心を高めるために、子どもたちと巣箱を作ったのが始まりと聞いています。昭和42年、東京都初の「愛鳥モデル校」に指定され、給仕活動や観察活動など、活動の幅を広げていきました。今日まで続く愛鳥活動の原型は、この時期に作られました。活動の中心は、野鳥保護委員会でした。昭和55年、「ゆとりの時間」が誕生すると、「はばたきの時間」として月に3回、全校で計画的に取り組まれるようになりました。平成に入ると、環境学習としての視点で活動が見直され、「愛鳥講座」、「自然観察オリエンテーリング」、「バードソン大会」、「自由研究発表会」などが計画的に進められる様になりました。その成果は児童の研究冊子「はばたき」にまとめられました。平成14年4月、完全学校週5日制が始まると、これまで行なってきたような活動が難しくなってきました。現在、探鳥会は、「全校はばたき」としてロングで年2回、「探鳥会」としてショートで月1回の割合で行なっています。その他、「巣箱掛け」、「バードカービング」、「愛鳥カレンダー」、「はばたき発表会」など、充実した学習活動を行なっています。8月を除く年11回、青少健・PTA・学校が協力して、「土曜探鳥会」が行なわれています。特に、5月の早朝探鳥会は、オオルリ、キビタキなどの夏鳥との感動的な出会いが体験でき、参加者も多いです。
昭和42年、都知事より「愛鳥モデル校」の指定を受ける。
       日本鳥類保護連盟より表彰を受ける。
昭和44年、野鳥保護により日本鳥類保護連盟より表彰を受ける。
       野鳥保護により文部大臣賞を受ける。
昭和46年、全国鳥獣保護実績発表大会に参加する。
       全国野鳥保護の集いに参加し、都知事の表彰を受ける。
       創立100周年を記念して、誘致園をつくる。
昭和48年、東京都島しょ小中学校長研究会開催校として、授業公開と愛鳥活動の
       発表を行う。
昭和49年、文部省へき地教育研究指定校として、「地域の特色を生かした愛鳥活
       動と道徳指導」の研究と発表を行なう。
       全国鳥獣保護実績発表大会(環境庁)で児童代表が研究成果を発表。
       文部大臣賞を受賞する。
昭和50年、都知事が来校、誘致園に記念樹を植える。
昭和53年、誘致園に「カワセミの池」ができる。
昭和54年、全国鳥類保護の集いに参加。日本鳥類保護連盟総裁賞を受賞する。
       全国鳥獣保護実績発表大会に参加。環境庁長官賞を受賞する。
       NHKテレビで本校の愛鳥活動が全国放送される。
昭和55年、「ゆとりの時間」が設けられ、「はばたきの時間」として週3回実施する。
       NHKテレビ「みんなの科学」で「野鳥を呼ぶ」が放送される。
昭和56年、全国鳥獣保護実績発表大会に都代表として参加.。文部大臣賞を受賞
       する。
昭和59年、都民の野鳥展で、児童代表が、「野鳥と私たち」を発表する。
昭和60年、全国鳥獣保護実績発表大会に都代表として参加.。林野庁長官賞を受
       賞する。
昭和62年、新しい野鳥誘致園が完成する。
平成 3年、愛鳥講座を実施する。
平成 7年、学校週5日制月2回が実施される。
       あきる野市発足、9月、「あきる野市立戸倉小学校」となる。
       誘致園に実のなる木を植える。
平成 9年、日本鳥類保護連盟会長賞を受賞する。
       愛鳥教育30周年記念事業、記念誌を作成する。
平成11年、PTA 創立50周年記念事業として、野鳥誘致園を改修する。
平成13年、都代表として全国野生生物保護実績発表大会に参加する。
       文部科学大臣奨励賞を受賞する。
平成14年、完全学校週5日制が実施され、「総合的な学習の時間」が始まる。
       バードウォッチング検定を実施する。
平成15年、環境教育課題研究校の指定を受ける。
平成18年、理数大好き事業で全校探鳥会を実施する。
平成19年、これまでの愛鳥教育に対して環境大臣賞を受賞する。
参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」、「戸倉小学校開校130周年記念誌」他
 NO.4                 子ども銀行          




戸倉小の貯金活動は、明治30年代後半に始められました。日清・日露の戦争の頃でしょうか。当時は、戸倉村に限らず、日本中が困窮していた時代です。子どもたちが山仕事などを手伝ってその費用を生み出していました。昭和28年、全国的な子ども銀行開設の動きの中で、「戸倉小学校子ども銀行」としての形態が整えられました。時代が移り、貯蓄の形だけが続きました。昭和47年、習慣的に行われてきた子ども銀行を教育活動として見直し、特別活動の中に、「貯金委員会」として位置づけられました。児童が現金の出納を行いました。昭和55年、指導要領の改訂に伴い、金銭教育活動が裁量の時間として位置づけられました。平成になると、「金銭教育の場は主に家庭である」と考える人が増えてきました。そうした経緯を経て、明治以来100年近く続けられてきた貯金活動は、平成4年度をもってその役目を終えました。 
明治30代後半、戸倉小の貯金活動が始まる。
昭和28年、戸倉小学校子ども銀行の形態が整えられる。
昭和45年、子ども銀行活動で大蔵大臣賞を受賞する。
昭和47年、日本銀行より子ども銀行のモデル校に指定される。
       特別活動として、「貯金委員会」が誕生する。
昭和48年、大蔵大臣より優良子ども銀行表彰を受ける。
昭和52年、日銀、大蔵大臣より優良子ども銀行表彰を受ける。
昭和55年、金銭教育活動が「裁量の時間」に位置づけられる。
昭和56年、優良子ども銀行として、大蔵大臣、文部大臣、日銀総裁賞を受ける。
昭和60年、優良子ども銀行として、文部大臣、日銀総裁賞を受ける。
平成元年、子供銀行が都知事表彰を受ける。
平成 2年、優良子ども銀行として、大蔵大臣、日銀総裁より表彰を受ける。
平成 4年度をもって、戸倉小の貯金活動がその役目を終える。
 参考資料:「戸倉小学校開校120周年記念誌」他 
NO.3                   疋田浩四郎先生
嘉永2年(1849)3月、摂津国有馬郡三田屋敷町(兵庫県三田市)に三田藩士の四男として生まれる。 明治17年5月30日、戸倉学校に第4代校長兼訓導として着任する。 当時の戸倉村は財政難を極め、教員給料の支払いにも困窮する状況が続いた。 疋田校長は、村を立て直すために、子どもや青年層の教育に熱心に取り組んだ。やがて教え子の中から指導者が育ち、見事に戸倉村を立て直した。 しかし、明治29年9月22日、48歳で急逝。村では、村葬をもって功績に報いた。 亡骸は光厳寺に埋葬され、有志によってお墓が造られた。時代は進み、昭和に入ると、日本は戦争に向かって突き進んでいく。 「戸倉を礎いた疋田先生ものがたり」が雑誌(昭和9年4月号少女倶楽部)に掲載された。 「教えの聖 われ等の先生」というタイトルで映画化もされ、後に「日本のペスタロッチ」と呼ばれるようになった。 命日には、現在でも6年生が墓の清掃を行い、連綿と故人の業績を偲んでいる。
 参考資料:「戸倉小学校百年のあゆみ」他
 NO.2                   策励学校を訪ねて
明治5年、政府は学制を布告した。翌6年 戸倉村と小中野村は、連合して小中野村の安養寺に小学校を開設した。 校名は「策励(さくれい)学校」と名づけられた。児童は58名(男子43名、女子15名)という記録が残っている。戸倉小の歴史は、まさにこの地から始まった。 場所は、桧原街道を五日市に向かって進み、松村商店東側を左折、旧道を横切って坂道を少し登った辺りである。 安養寺は当時無住で、その後廃寺となったため現在は何も残っていない。しかし、跡地と思われる場所は、畑地として残っていた。 「策励」の意味を調べてみた。「むち打ちはげます意から、大いにはげますこと。また、大いにはげむこと。」とあった。 夏草が生い茂る先に城山を望む。むせ返るような草いきれの中で、策励学校に学ぶ子どもたちの姿を想像した。平成22年、本校は、創立137年目を迎えた。
 参考資料:「戸倉小学校百年のあゆみ」
 NO.1                 青い目の人形         <English>
青い目の人形昭和2年(1927)、 アメリカから12,739体の人形が 親善使節として日本に船でやって来ました。戸倉小にも寄贈され、同年7月12日、歓迎式典が行なわれました。 当時、日本とアメリカの関係は悪化の一途をたどっていました。この危機をなんとか好転させたいと願った人がいました。 シドニー・ルイス・ギューリック博士です。博士は、「平和と友情」の精神を育てていくためには、子どもの世代からの 国際交流が必要」と考えました。太平洋戦争が始まると、人形は敵国人形として 憎しみの対象とされました。全国の学校に焼却命令が出されると、そのほとんどが焼却されてしまいます。現存する人形は、約300体と言われています。人形は アメリカでは「フレンドシップドール」、日本では「友情人形」と訳されました。本校に人形が来てから82年が過ぎました。博士たちが唱えた「世界の平和は子どもから」の思いを、これからも語り継いでいきます。
参考資料:「戸倉小学校・開校120周年記念誌」他